生協壁画問題によせて
蜂起の記憶……。大学は、その歴史的な機能を手放そうとしている。学生への露骨な圧力は、至る所で目に見える軋轢を生じさせている。まず、私たちは現にあるこうした軋轢を注視しよう。それは、たとえば吉田寮問題であり、京大、早稲田の立て看問題である。問題を共有しながら、彼/女らは連帯しつつあるのだろう。創意工夫を重ねながら、さまざまな抵抗が繰り広げられている。幸いにも、今回の問題の経緯、あるいはそれへの抵抗の詳細についてはSNS上に文章があるので、それらを熟読してほしい。
さて、私たちは傍観者にすぎないのだろうか。あるいは、このような抵抗へとささやかな連帯の意を示し、小洒落た用語で堕落した大学を批判してみせればよいのだろうか。違う。私たちのなせる、なすべき連帯のかたちは、さしあたり生協壁画問題の追求にほかならない。吉田寮、そして立て看問題は、いわば
大学は、蜂起の記憶を染みひとつ残さないように抹消し続けている。綺麗に区画されたキャンパス、実質的に機能しない自治会、学生不在で進む図書館の閉館……。それでもなお、かつての蜂起はまさにいまここに実在している。それは、私たちをありありと触発し続けているのである。壁画問題が大々的に取りあげられたとき、私たちはなんら行動を起こさなかった。しかし、京大の、早稲田の抵抗の現前が、私たちに記憶を取り戻させたのである。蜂起の記憶を描いた宇佐美圭司の壁画は、砕かれることによって微粒子へとかたちを変え、私たちに降り注いでいる。私たちはこの壁画問題を皮切りに、かつての蜂起を生きはじめるだろう。大学の自己破壊の速度を、私たちの記憶の速度は上回るに違いない。この文章は、連帯の呼びかけである。ひとつには、京大、早稲田の学生をはじめとする、いままさに抵抗を繰り広げる人々への。そして、50年前に、あるいはこの場に限って言えば49年前に大学を「解体」しようと試みた私たちへの。
私たちがもっとも密に関わらざるをえない大学は、さしあたりここである。それゆえ、ここから始めよう。私は、まだ見ぬあなたからの知らせを確信しながら待つことにする。私たちは必ず出会うだろう、そこで次の行動を話し合うことにしよう。