Dehors

それは突如現れるだろう。

生協壁画問題によせて

 蜂起の記憶……。大学は、その歴史的な機能を手放そうとしている。学生への露骨な圧力は、至る所で目に見える軋轢を生じさせている。まず、私たちは現にあるこうした軋轢を注視しよう。それは、たとえば吉田寮問題であり、京大、早稲田の立て看問題である。問題を共有しながら、彼/女らは連帯しつつあるのだろう。創意工夫を重ねながら、さまざまな抵抗が繰り広げられている。幸いにも、今回の問題の経緯、あるいはそれへの抵抗の詳細についてはSNS上に文章があるので、それらを熟読してほしい。

 

 さて、私たちは傍観者にすぎないのだろうか。あるいは、このような抵抗へとささやかな連帯の意を示し、小洒落た用語で堕落した大学を批判してみせればよいのだろうか。違う。私たちのなせる、なすべき連帯のかたちは、さしあたり生協壁画問題の追求にほかならない。吉田寮、そして立て看問題は、いわば確信犯的な、、、、、弾圧である。それに対して、東大の生協壁画問題とは、「不手際」をつうじた無意識的な、、、、、弾圧なのである。両者に共通するものは何か、それは「蜂起の記憶」の抹消である。そうすることで、再びその記憶を生きようとする者の存在に介入しているのである。これは大学の新自由主義化といった単純な問題にとどまらない、より根源的な問題の表出である。もちろん、この大学において立て看を現に設置してみせることも重要な行動である。ただし、立て看を設置することに終始してはならないだろう。さしあたり、、、、、立て看の設置が認められているいま、私たちが真に連帯することは、この場に特有の形態でなされている「蜂起の記憶」の抹消に抵抗することである。その形態とは、壁画の廃棄にほかならない。それゆえ、私たちはこの問題に取り組まねばならないのである。

 

 大学は、蜂起の記憶を染みひとつ残さないように抹消し続けている。綺麗に区画されたキャンパス、実質的に機能しない自治会、学生不在で進む図書館の閉館……。それでもなお、かつての蜂起はまさにいまここに実在している。それは、私たちをありありと触発し続けているのである。壁画問題が大々的に取りあげられたとき、私たちはなんら行動を起こさなかった。しかし、京大の、早稲田の抵抗の現前が、私たちに記憶を取り戻させたのである。蜂起の記憶を描いた宇佐美圭司の壁画は、砕かれることによって微粒子へとかたちを変え、私たちに降り注いでいる。私たちはこの壁画問題を皮切りに、かつての蜂起を生きはじめるだろう。大学の自己破壊の速度を、私たちの記憶の速度は上回るに違いない。この文章は、連帯の呼びかけである。ひとつには、京大、早稲田の学生をはじめとする、いままさに抵抗を繰り広げる人々への。そして、50年前に、あるいはこの場に限って言えば49年前に大学を「解体」しようと試みた私たちへの。
 私たちがもっとも密に関わらざるをえない大学は、さしあたりここである。それゆえ、ここから始めよう。私は、まだ見ぬあなたからの知らせを確信しながら待つことにする。私たちは必ず出会うだろう、そこで次の行動を話し合うことにしよう。