Dehors

それは突如現れるだろう。

9/28シンポジウムの感想

 去る9月28日、生協壁画問題のシンポジウムにわれわれは足を運んだ。登壇した大学教員や「知識人」たちは、壁画の廃棄をもたらした、関係者の無関心、そして無知を糾弾していた。 「宇佐美の作品は美術史的に素晴らしい価値がある」、「「きずな」は宇佐美にとって画期的な作品である」、「宇佐美は(一般名詞としての)生協に適した、教育的な構図を描いたに違いない」。そして最後に「このような素晴らしい絵画が廃棄されてしまったことは遺憾である」。彼らはおおよそこのように語ることで、無知を無知でもって上塗りするに終始していた。彼らは、およそあらゆる場所で、たとえば国立近代美術館で、あるいは百歩譲ってあらゆる「大学の食堂」で、重要な絵画が廃棄されたとしても、同じことを語るのだろう。

 まさにこの問題の「当事者」である東大教員たる加治屋准教授@kenji_kajiya は(話の内容からすると、駒場の教員は当事者ではないと思っていたのかもしれないが)、滔々と宇佐美圭司の壁画について聴衆に解説してくれた。あの場に駆けつけた聴衆は、熱心に聞き入っていた。彼の見事な壁画についての「構造主義的還元」は、壁画の廃棄をもたらした権力の力学についての「構造主義的還元」を欠いていたことによって、滑稽な啓蒙に変わってしまった。講義室でなされたならば、素晴らしい話だったのだろう。もしかすると、彼は知らなかったのかもしれない。宇佐美の壁画が展示されていた食堂が、いかなる建物の地下にあったのか。その建物が、かつていかなる出来事とともにあったのか。そして、彼が立っているまさにその場所が、いかなる出来事の象徴となっているのか。加治屋准教授ひとりが悪いのでもなければ、登壇者全員を腐したいわけでもない。そもそも、私たちは「大学教員」なるものをハナからまったくアテになどしていない。(ただし、鈴木泉「氏」だけが例外的に無知ではありえなかったことだけは記しておく。)

 さて、結局彼らは〈宇佐美圭司の壁画が廃棄されてしまった〉ということを嘆いていたにすぎない。しかし、宇佐美の絵画が失われたことなど、大した問題ではない。蜂起を描いた宇佐美の壁画が、まさにこの列島における蜂起の象徴である安田講堂の地下に実在したこと。そして、こうした蜂起の記憶の表現が廃棄されてしまったこと、それこそが問題なのである。東大は学生運動の記憶を排除している——総長に向けられたこの発言がなければ、このシンポジウムは一切の意味を持たなかっただろう。そして、このシンポジウムがくだらないものになってしまったのは、登壇者すらもが壁画を廃棄した人間と同じくこの記憶を排除していたからである。

 

 私たちは、記憶の排除にこそ抵抗する。宇佐美圭司の壁画、そんな物ははじめからどうなろうがよいのである。